2020-11-13 第203回国会 衆議院 内閣委員会 第3号
これは、当時の九州帝大、今の九州大学の医学部の外科において、アメリカ軍の捕虜に対して生体解剖を、被験者が生存状態で生体実験や解剖が行われた事実があります。これは九州帝国大学、組織としてかかわっていないという主張もありますが、ただ、B級戦犯裁判、主任教授、自分自身の責任だと言って自殺していますので。
これは、当時の九州帝大、今の九州大学の医学部の外科において、アメリカ軍の捕虜に対して生体解剖を、被験者が生存状態で生体実験や解剖が行われた事実があります。これは九州帝国大学、組織としてかかわっていないという主張もありますが、ただ、B級戦犯裁判、主任教授、自分自身の責任だと言って自殺していますので。
○加藤国務大臣 ですから、今の九州帝大の件、これは学問の自由という側面もあると思いますが、多分それ以外の側面も当然あるんだというふうに思いますので、それ以外のところはちょっと学術問題とは直接絡まないので、学問の自由ということの観点からということで先ほど答弁をさせていただいたということであります。
実は私は九州帝大付設の三年制の臨時教員養成所出身で、理学博士桑木或雄先生が主事でありましたが、先生の方針で、数学だけは高師よりよけいに教授されました。そうしてあの方の方針で、英語とフランス語とドイツ語をやらされました。教育学というものは、ごく少時間やっただけで、あとの一般教養というものはほとんどやらなかった。非常にへんぱというか、極端な教育をやったわけですよ。
私も九州帝大付属の臨時教員養成所の卒業ですがね。ところが、現在は教員は四年制の大学で養成するという大原則があるわけでしょう。小学校、中学校の先生まで、全部四年制なんですね。大学卒業生に、それによって免許されている。教師の場合には免許というものが非常に大事なわけなんですね。
元九州帝大の総長をしておられた大島直治先生が小倉の外国語学校の校長をしておられますので、大島先生の通訳で話をした。二人の婦人はルーズヴェルト夫人のひざ元に涙を流して人道問題として訴えた。そして熊本まで着かれた。
帰国いたしましてから、一時九州帝大の図書館嘱託として勤務いたしまして、二十一年の三月退職しまして、それから九州商事株式会社の相談役をいたしました。二十五年の二月に子供の学校関係その他で東京に上京いたしまして、そのとき一時ロマン製菓株式会社総元売りさばきをやつておりました。
○田中証人 昭和九年の三月に九州帝大法文学部を卒業いたしまして、爾来自宅におつて職業を持ちません、十二月五日に至りまして山九に入社いたしました。
○山森証人 昭和十八年の十二月まで九州帝大の法文学部におりまして、学徒動員によつて同年十二月一日、朝鮮の会寧の第七十九師団の七十五連隊に入隊しました。それから半年ほど教育を受けまして、ハルピンのロシヤ語の教育隊に参りました。そこで二十年の五月半ばごろまで、ロシヤ語の教育を一年と一箇月ほど受けました。
それから九州帝大を出た若林という工場長、それから同じく九州帝大を出た労務課長か何かをしておる高橋、こういう方が見えました。それから又そうでない方もおりますが、相当日本人がおりましたが、余り記憶しておりませんので、大体紙に記憶したのを書いておりますが、大体五、六十名くらい記憶しておるような状態であります。
それからこの前証人として出られた元九州帝大助教授の石川さん、この方も現認しておる。また調査員の石川さんも現認しておる。そういう生活をしておる。ですから、この点に非常に誤解がある。なぜ誤解があるかというと、これは実は九月の十三日にこの問題が取上げられまして、神山君が共産党を代表して反対、私が民自党を代表して賛成論をとなえて、そうしてこれが非常にけんけんごうごうたる批判の的になつた。
その後、日本で九州帝大の法医学の教室で澤井博士が、これは産婦人科の方だと思いますが、法医学的に、この性交によつて、つまり処女の血液の中に変化が起る血清学的変化というものを調べる。で、確かにそういう変化がある。こういうことを報告しておるのであります。
それから九州帝大の中に福岡、大分、宮崎、熊本、長崎、佐賀、鹿児島、これを管内といたしますものをつくりました。これらの出張所が先ほど申しましたように最も第一の仕事として行いますことは、地方の六・三制に伴います新制中學の戰災復興、小學校の復舊復興、この二點を主眼といたしまして、それらのことについて府縣のお世話をいたすということを主眼にしております。